キリスト教と白百合
キリスト教のシンボルで宗教行事を飾る聖なる花、白いユリ。聖母マリアのシンボル「マドンナ・リリー」として熱望されながら、ユリは欧米での栽培には風土的になじまなかったようで、ほとんど自生できませんでした。
しかし、この日本ではユリは「野の花」です。当たり前にあちこちに生えています。
明治初めに始まったユリ球根の輸出。日本のユリ球根はイースター(復活祭)の頃咲く聖花として使われるようになり、今も「イースターリリー」として親しまれています。
海外に伝わる日本のユリ
日本のユリの海外への紹介は江戸時代から始まりました。
最初に日本のユリをヨーロッパに持ち帰り、生きた花植物として紹介したのは、シーボルトです。医者で日本の文化にも植物にも造詣が深かったシーボルトは、1830年に所有物の中に地図があったことから日本を国外追放になります。その際にジャカルタ経由で欧州に船で帰着しますが、日本の植物の種や球根などを伴っていました。
この中にユリの球根もありました。長い航海中に多くが腐敗したと言われますが、残ったものの中でガン植物園(ベルギー・ゲント市)が引き受けた球根から、カノコユリやテッポウユリが咲き、「ルビーやガーネットのように美しい」と、たいそうな評判になりました(残念ながら山ユリは咲かなかったようです)。
さらにここから流出した球根がロンドンのオークションにかけられ、1球根50ポンド(今だと300万円ぐらい?)の値がついたとの記録が残っています。まさに「熱狂」と言うところです。
横浜港から海を渡ったユリ球根
この評判を聞いた欧州の人々が、やがて来日し、定住し、横浜で貿易を始める人も現れました。当時の貿易は通商条約により外国人のみに限られていました。
異人館のユリ輸出商たち
明治20年ごろの主なユリ球根の輸出商として、クラマー、ジャーメイン、アイザック・バンティング、ボーマーの名前が上がります。彼らはそれぞれの理由で来日し、やがて居留地であった横浜山下町や元町に異人館と呼ばれる商社を開き、そこを拠点として貿易を営みました。命がけで海を越えて日本で仕事を始めた人々には物語があります。
ボーマー商会
ボーマー氏は北海道開拓使の「お雇い外国人」として来日。リンゴなど多くの作物を導入しました。野生のホップを見つけて栽培、日本のビールの生みの親とも言えます。
その後、横浜に移り、ボーマー商会を設立。ボイラー付きの大温室を建てて、園芸貿易を本格的に行います。
日本の園芸家や園芸貿易を育て、花卉輸出の恩人ともいわれています。
ジャーメイン商会
園芸家の父を持つ英国人ジャーメイン氏は、横浜の外人墓地の管理人をしているとき、そこでお供えに使われた花を見て、欧米人のユリ、特に山ユリ好きを実感し、ユリ球根貿易に本腰を入れます。
最初は輸送途中に腐敗・病気をおこしながらも、次から包装充填材に工夫をこらし、横浜港から出荷し続けました。その中には鎌倉からの球根もあったようです。
ジャーメインはたまたま鎌倉に遠乗りした帰途、山でササユリの花を見つけます。心惹かれた鎌倉のササユリ。以来、十数年、英国向けの輸出を一手に手掛けます。
現在、鎌倉で自生するササユリを見ることは稀です。鎌倉のどのあたりだったのでしょうね?
アイザック・バンティング社
アイザック・バンティング社のバンティング氏は、英国のコルチェスターで養樹園を営む家系の出身です。当初、ビジネスをするためにジャーメインを頼って来日し、同社に勤務します。
バンティング氏はユリを求めて沖永良部島(おきのえらぶじま)に命がけで行き(難破して漂流してたどり着いたと言われている)、そこでユリの群生を見つけます。
「このユリを大事に育ててください。必ず帰ってきて、自分が買い取ります」
島を去る際に、バンティング氏はそう言い残したそうです。
数年後、言葉を信じてユリを育てた島民からすべてのユリ球根を高値で買い取ると、島の甘藷の葉で球根を包んで船で横浜港まで運び、横浜元町100番に設立したアイザック・バンティング社から故郷の英国コルチェスターに向けて輸出を始めます。
バンティング氏はこのユリを「エラブユリ」として世界に紹介し、高い評価を得ます。山ユリやササユリに比べると栽培しやすく病気にも強かったテッポウユリ系のエラブユリ。以降、栽培が拡大し、現在でもユリ栽培は島の有力な産業として続いています。
アイザック・バンティング氏は沖永良部島、甑島、鹿児島、関東一帯などでユリ栽培の指導と買い付けを行い、子息アーネストとともに日本のユリ栽培に大きな貢献をしました。
実は鎌倉の玉縄付近で栽培された球根の多くを輸出したのは、親子2代にわたるアイザック・バンティング社です。玉縄在住の角田助太郎氏を通して買い取り、輸出したものをロンドン近くの倉庫で寝かせ、イースターに花咲くように調整して出荷し販売していたのです。
英国の同族の会社「バンティング社」もこの球根をコルチェスターで育て、生花として教会などの有力な顧客に納めていたようです。バンティング社のユリは評価が高く、高値で取引されました。
盤石に見えたアイザック・バンティング社でしたが、昭和が始まるころには日本の貿易会社が台頭しだします。品種改良を続けた米国でもユリ栽培が可能になり、競争が激化。昭和4年に会社は閉鎖。バンティング社の日本でのユリ事業は終わりを迎えます。
日本のユリ貿易会社
明治22年ごろから日本の貿易会社・新井清太郎商店がゆり根輸出を始め、23年には、園芸会社・横浜植木株式会社もユリ貿易に参入します。
横浜植木は会社設立発起人に井上薫、大隈重信ら明治の元勲が名前を連ね、国内の植木商が出資してできた待望の日本の園芸会社です。
ボーマー商会でアシスタントとして園芸に携わった鈴木卯兵衛氏が社長として始まり、ニューヨークやロンドンにも支店を開き貿易を拡大します。同社は貿易だけでなく、山下公園のバラ園や新宿御苑の造園をしたことで高名になりました。
同社の日本の園芸植物のカタログは多色刷りの石版画で、日本のユリの美しさを伝え、ユリ球根とともに欧米の人々の心をつかみました。
横浜植木と新井清太郎商店の両社は、外国人貿易商が伝えた輸出の実務や技術をベースにして、栽培や集荷、梱包、移送でも独自の工夫で輸出を盛り立てます。
次回は、日本のユリが世界に広まっていった様子をお話しします。
参考文献
鈴木一郎 「日本ユリ貿易の歴史」
近藤三郎・平野正裕「絵図と写真でたどる明治の園芸と緑化」誠文堂新光社
酒瀬川純行「The life of Isaac Bunting」
プルー・ジェームス「時の砂の上の足跡アイザック・バンティング」
「株式会社新井清太郎商店九十年史」
「横浜植木株式会社百年史」
えらぶゆり.com
http://erabuyuri.com/wps/
知っていましたか? 近代日本のこんな歴史
https://www.jacar.go.jp/modernjapan/p02.html
公開日:2020年08月28日
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