明治・大正期の海を渡った鎌倉のユリ(後編)

「ユリ協会NEWS」寄稿記事の後編です。以前のユリ連載記事をまとめて、その後にわかったことを追加しています。


明治20年ごろの鎌倉では玉縄村、大船村(現・鎌倉市の北部)でヤマユリの掘り取りやテッポウユリの栽培が行われていた。

その鎌倉郡玉縄村の角田家は代々名主を務めた家柄で今日でもあるユリ御殿の主家だ。幕末に当主となった角田所左衛門は温厚で質素な人で人望も厚く、玉縄村の戸長(村長)となった。実の父が廻船業だった影響もあるのか、輸出用ユリ栽培を始め、地域の人々にも栽培を促し、仲買もしていたようだ。

つのだしょざえもん
角田所左衛門

孫の助太郎は十代でユリ事業に就くとそれを担い、大正初期には埼玉で始まった「黒軸テッポウユリ」を導入した。玉縄、豊田村(横浜市栄区)、三浦村(現・三浦市)など 『300軒ほどの農家を束ねて仲買として活躍し、時にオーストラリア等に直輸出して帰り荷に洋服の生地を輸入し、それを横浜の中華街で売りさばく』有能なビジネスマンとして活躍し、大船近辺の「ユリ大尽」と言われた。

『第一次世界大戦がはじまると、日本からのユリの輸出は途絶え、ユリの球根を栽培していた人はユリどころではなくなり、値段は暴落し、いくら安くしても買い手がないため、ほとんどの人が処分した。ところが角田氏は、4,000箱のユリを捨てずに持ちこたえ、戦後、海外から注文が来たときに、戦前の数十倍の価格でそれを売ったため、現在の金にして数億円という金を得たという。』

ユリ御殿
角田屋敷

角田家はこうして得た資金を地域の公共事業に充てた。道を作り、山が多い玉縄村にトンネルをつくり土地を開発した。

学校関連のことは戸長の所左衛門が担当して、小さな寺子屋を拡充して玉縄学校(現・玉縄小学校)を設立した。卒業生が農業や商業を学べる中学相当の学科も設けた。貧しい人を助け、後進も育成した。

助太郎はビジネスに励み、資金面でこれを支えた。彼は40歳で請われてアイザック・バンティング社の副社長になり、所左衛門など家族のために10年以上かけて10億円ぐらいをかけて家=ユリ御殿を作った。現在の当主によると、助太郎は働き者でおしゃれな人だったらしい。家の随所にその意匠が見える。

つのだすけたろう
角田助太郎

ユリ栽培・出荷には当時としては特別な技術が必要だった。助太郎とアイザック・バンティング社はその指導をしながら栽培地を玉縄村から横浜戸塚、厚木、八王子、相模原や伊豆半島方面まで移した。

ユリ球根の収穫量は天候などに左右され価格は年によって異なった。仲買は量を集めるため収穫時に農家と現金取引をした。角田家にはその時期になると資金が山のように積まれ、見る見るうちになくなり、年によって借金の文証の山に代わったそうだ。

大正11年にはその鎌倉郡玉縄村に農事(農業)試験場が設置され神奈川の農業研究の中心となり、ユリ事業も栄えた。

しかし大正12年、関東大震災が発生。横浜港が壊滅してユリ球根貿易はストップ。園芸貿易各社は大ダメージを受けた。対応に奔走した角田助太郎は翌年、病に倒れ急逝した。震災で負債を抱えた角田家はユリ事業を終え、鎌倉郡のユリ栽培はやがて廃れた。

松竹大船撮影所
松竹大船撮影所

助太郎の子息・久米一が返済のため手放した30,000坪の土地に松竹大船撮影所が完成。ここからまた世界を魅了する映画が生まれたのだ。「ユリのおかげ」かもしれない。

このほか、鎌倉の杉本寺(鎌倉市浄明寺)付近の臼井家でも女性を雇用して広範囲にユリの栽培を行っていた。鎌倉郡阿久和村(現横浜市泉区)の中丸家は大正後半からユリ栽培を開始、小作人の子どもも小学校に通わせていた。「ユリのおかげ」で鎌倉には「女性雇用」や「教育の機会」が他所より早く来たとも言えそうだ。

ユリは種子から花を咲かせるほどの球根に育てるには4年以上かかる。その後の土の回復のために野菜と組み合わせた輪作が必要だった。

NOTES IN JAPAN
A FIELD OF LILIES OFUNA NEAR KAMAKURA

英国人水彩画家Alfred Parsonsが明治25年ごろ訪日した際の旅行記『NOTES IN JAPAN』(1895年出版)の「A FIELD OF LILIES OFUNA NEAR KAMAKURA」の章に、大船のユリと野菜栽培の描写がある。

『…水がひかれていない鎌倉付近の農地はさらに色彩が豊かだ。明るいグレイの土の上でたくさんの種類の野菜、サツマイモ、スイカ、トマト、豆、そして最も大きな区画に球根輸出のためのヤマユリとテッポウユリが育っている。』

彼が大船に立ち寄った頃には、ユリとともに洋野菜も含めてここで少量多品目の商品作物が輪作で作られていたことがわかる。

これは現在の「鎌倉野菜」の栽培のスタイルにつながっている。鎌倉では今も小規模の農家が通年で20~160品目ほどの野菜(商品作物)を作り、即売所や軒先で直接販売するのだ。これも明治から付加価値の高い商品作物の生産や販売を続けていたおかげだろう。

色とりどりの鎌倉野菜
鎌倉野菜

こうしたユリ栽培は第2次世界大戦により中断されたが戦後再開。昭和30年代になると鎌倉の農業試験場は神奈川県立大船フラワーセンターとしてリニューアルオープンする。園芸、特に一般に向けた花卉の普及や輸出振興を目的とし、ユリの栽培と研究も重ねられた。プロモートのため、フラワーセンター自身もユリ輸出の事業をしていたようだ。

内田かのこユリ
フラワーセンター(当初)のユリ花壇

しかし戦前並みに回復するかに見えたユリ輸出は、品種改良による米国産ユリ球根の普及や1971(昭和46)年のドルショックのため一気にしぼんだ。ユリ出荷はほぼ国内向けになり、同園での輸出事業は終了した。が、研究は2018年に日比谷花壇フラワーセンターに変わるまで続いた。

ユリをはじめ、同園の品種改良技術は県内の農園や種苗会社にも伝わり、ユリの原種の保全や新種や希少種の育成は同園出身の大石勝彦氏や小林こずゑ氏が伊豆、長野、平塚などで現在も継続している。

欧米を魅了し、地域に様々な豊かさをもたらした「鎌倉のユリ」の名残は、その地で今も咲き続けている。


前編では、横浜港から欧米に向けたユリの輸出産業について、その歴史的背景を解説しています。

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