明治・大正の海を渡った鎌倉のユリの話(その4)

玉縄村のユリ栽培

明治45年の書籍「神奈川県に於けるゆり根栽培」には、県内の主なゆり根(ユリ球根)産地として、「鎌倉郡玉縄村」の名前がまず挙げられています。

神奈川県に於ける百合根栽培

神奈川県に於ける百合根栽培2

市内に伝わる数々の農業日記からも、やはり玉縄村、十二所、大船でも 明治20年ごろからは山ユリや鉄砲ユリの球根の山採りや栽培が始まっていることが分かります。とりわけ玉縄村は明治23年の日記には「百合堀取る、百合植る」のコトバとそのための土地の貸し借りの記録があることから、地域での協力と栽培の始まりがあったことがうかがえます。

自生する山百合

角田家の成功

また、大正初期に、ユリの貿易商のアイザック・バンティング社の副社長まで務めた角田助太郎氏によって、神奈川県に黒軸テッポウユリの栽培が導入されたことが記録に残されています。玉縄村、三浦方面、豊田村(現・横浜市栄区)に組織的に広げ、アイザック・バンティング社を中心に取引していたようです。

角田助太郎
アイザック・バンティング社カタログ
大正初期アイザック・バンティング社のカタログ
テッポウユリ
テッポウユリ
百合御殿
角田家

角田家は平安時代の後期から玉縄にいる大地主で名主の家系です。助太郎氏の活動ぶりを伝える2つの文章があるので、少し長いですが、引用します。

このころ(大正9?年)ひざもとの神奈川県では県下で一番生産量が多かった鎌倉郡の玉縄村(いま・鎌倉市岡本)で”百合大尽”と言われていた角田助太郎からもゆり根を買い付けている。角田は玉縄村の三百人ほどの生産者をほとんど握るなどして、手広くゆり根を集荷していた。そうして、ときにはオーストラリアへ直輸出をし、帰り荷に洋服の生地を輸入して、それを横浜の中華街で売りさばいてもいた

新井清太郎商店90年史

また鎌倉郡玉縄村の角田助太郎氏は埼玉県から大正初期に黒軸テッポウユリを導入、自分でも栽培すると同時に仲買人として三浦方面、および玉縄村、豊田村方面に栽培を広げた。

彼はアイザック・バンティング社の副社長として活躍し、大船近辺のユリ大尽として有名で、大船観音の建立者の父親でもある。

第一次世界大戦がはじまると、日本からのユリの輸出は途絶え、ユリの球根を栽培していた人はユリどころではなくなり、値段は暴落し、いくら安くしても買い手がないため、ほとんどの人が処分した。ところが角田氏は、4,000箱のユリを捨てずに持ちこたえ、戦後、海外から注文が来たときに、戦前の数十倍の価格でそれを売ったため、現在の金にして数億円という金を得たという。

神奈川の輸出球根の歩み

角田助太郎氏のユリを通して世界を相手にビジネスする躍動ぶりが伝わります。

ちなみに、角田助太郎氏のおじいさん角田所左衛門氏は、玉縄小学校の創始者のうちの一人。玉縄のユリの栽培がこのころから始まったことを鑑みると、ユリで得た資金が玉縄小学校の運営に回されていたのでしょうか。玉縄小学校は、ユリの小学校でもあるわけです。そんなふうに考えると、ちょっと素敵でしょ。

大正後半から昭和のユリ球根栽培と輸出

しかしユリの球根ができるまでは、少なくとも2年、通常サイズの球根になるまでには4年はかかります。連作もできませんし病害虫にも弱く、栽培には技術が必要でした。

そのため、角田氏とアイザック・バンティング社は栽培や出荷の技術指導をしながら、栽培地を玉縄村、三浦、戸塚、町田、八王子と移し、伊豆、韮山まで行ったようです。

大正時代ユリ球根取扱風景

鎌倉郡のユリ事業と農事試験場

そんなことが背景にあったのでしょうか、大正11年にはその玉縄村に県立の農事試験場ができ、病害虫予防の研究が始まりました。

関東大震災が大正12年に起こり、横浜港が壊滅してユリ根貿易は完全にストップします。そのすぐ後の角田助太郎氏の病死(大正13年)をきっかけに角田家はユリ事業を終了し、ユリ栽培は玉縄村から同じ鎌倉郡の大正村、新橋、和泉(現・横浜市戸塚区や泉区)に移ります。

中丸家
中丸家

栽培農家の中心も中丸家、横山家に変わります。両家は関東大震災まで養蚕(シルク)農業を行っていました。ユリ根栽培に変更した農家を買い取りや栽培指導の点で横浜植木株式会社、新井清太郎商店が支えたようです。

このあたりの栽培地は玉縄村を通る柏尾川、境川とつながっており、川の水路を使えば20分ほどで移動できます。ここでも豊かな水と土壌ともに玉縄村の技術や農事試験場の研究が生かされたことでしょう。

日本のユリ栽培のピークと減少

ユリ球根取引

日本のユリ栽培と輸出は昭和12年ごろにピークを迎え、次第に減少して行きます。背景には世界恐慌、ユリ球根自身の病気の拡大、価格の不安定さなどがあり、農家が疲弊してしまったようです。

神奈川県の主なユリ産地も津久井や平塚に移り、生産面積も減っています。そして第2次世界大戦で社会は一変し、ついに輸出が途絶えてしまいます。

戦後の昭和21年ユリ輸出は再開されますが、大戦の影響で球根の質がかなり劣化してしまい、日本産の評価が落ちてしまいます。 一方、最大の輸出相手国アメリカでは品種改良に成功し、自国製ユリ球根の量産が始まりました。国は戦後の食糧難で食糧の生産に力を入れており、日本のユリ球根栽培は勢いを失います。


次回ついに最終回です。鎌倉の、神奈川のユリはどうなったのでしょうか?


参考文献

神奈川県輸出花き球根協会「神奈川県の輸出球根の歩み」1970
神奈川県内務部「神奈川県に於けるゆり根栽培」
神奈川県内務部「海外に於ける本邦輸出植物の商況」
鎌倉近代史資料室「大街堂日記」
鎌倉近代史資料室「大津家日記」

公開日:2020年09月04日

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