ゆり御殿とユリ球根の輸出
鎌倉市玉縄地域にある我が家の庭では、植えてもいないのに、毎年ユリがさきます。
ご近所の立派なお屋敷は、「ゆり御殿」と呼ばれています。ユリ御殿って…ナニ???
鎌倉に古くから住まいの方から教えていただきました。「あのユリ御殿と呼ばれる建物は、玉縄地域の名主の角田家の先々代が作られたものです。もともと由緒あるご家系でしたが、ユリ球根の輸出でさらに成功され、あの建物を建てたのだと聞いています」とのこと。
「ユリ球根の輸出? どこに? 球根って食用に輸出していたの?」
園芸商品としてのユリ
知り合いの鎌倉野菜の農家は鎌倉のユリに関してこんなふうに教えてくれました。
「僕たちが子どもの頃は、朝に山に入ってユリの花を取って、切り花として鎌倉駅の近くの市場レンバイで売ったよ。良いお金になった。ここら辺ではそれほどたくさんのユリが咲いていたんだよ。」
そういえば今でもレンバイでは桃や桜などの季節の切り花を販売しています。野菜作りだけではなく花の山採りも栽培も農業であり、野菜作りも含めて「園芸」と呼んでいたのだそうです。そして昭和30年代ごろの鎌倉では、ユリは食用ではなく生花用の園芸商品だったんですね。
歴史をたずねて
ここから私の明治・大正・昭和時代の鎌倉・玉縄地域のユリとその山採り・栽培とユリ球根の輸出の歴史への旅が始まりました。
さっそく玉縄図書館に情報提供をお願いしました。また、地域のちょっと昔の細かな情報を調べるため、郷土資料や近代史資料室にも手を伸ばし、何より角田家の現在のご当主や地域に長くお住まいの方に聞き取りをしてみました。
そうして「玉縄での輸出用のユリ球根栽培の歴史」が少しずつ明らかになってきました。
ユリの里、玉縄
鎌倉、とりわけ玉縄地域は、明治20年ごろから輸出用の球根の産地として知られました。食用でも切り花用でもありません。海外向けの観賞用・装飾用ユリ花の球根です。その出荷では明治35年ごろから大正時代にかけて「ユリの里」ともいえるほどの産地だったようです。
そこには、自らユリ栽培をしながら農家を束ね、指導や仲買まで事業を広げ、横浜の外国人貿易商と組んでユリ球根を販売または直接輸出を行った鎌倉郡玉縄村の地主で農業家・角田助太郎氏の存在があったのです。
少し長い話になります。次回は、鎌倉のユリの話の前に、世界中で愛された日本のユリの話から始めさせてくださいね。
海を渡った鎌倉のユリ~明治・大正のユリ球根の栽培と輸出~
9/8~22まで玉縄図書館で展覧会を開催します。
公開日:2020年08月19日
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