由比(ゆい)の長者

むかし、鎌倉の由井の里に染屋太郎太夫時忠という長者が住んでいました。

由比の長者1

長者夫婦は、大きな屋敷で大勢の家来にかこまれて、何不自由なく暮らしていましたが、子どもがいません。そこで、どうか子宝を授けてくださいと、熱心に観音さまにお祈りしました。すると、祈りが通じたのか、玉のような女の子が生まれました。

由比の長者2


長者夫婦は、観音さまに授かった子として、たいせつに育てました。娘はすくすくと愛らしく成長して、3歳になりました。

長者は、娘を目の中に入れても痛くないほど可愛がり、常に家来を何人もお供に付けて、片時も目を離さぬよう命じていました。

由比の長者3

ある日のこと、娘は由比ヶ浜の砂浜で遊んでいました。そこへ突然、大きな大きな鷲が舞い降りて、娘をつかんであっという間に飛び去って行きました。お付きの家来たちは慌てて追いかけましたがなすすべもなく、見失ってしまいました。

由比の長者4

愛する一人娘がさらわれた長者夫婦は、必死になって家来に探させましたが、一向に見つかりません。気も狂わんばかりに嘆き悲しみました。そして、自ら娘の行方を捜すために、夫婦で鎌倉中を歩き回りました。

由比の長者5

あちらこちらの道ばたで、誰のものかもわからない骨や肉のかけらを見つけるたびに、わが子の骨、わが子の肉かと思って、そこに石塔を建てて供養しました。そこは人を弔う塔のある場所「塔ノ辻」と呼ばれました。

由比の長者6

夫婦はとうとう六国見山の南で、変わり果てた娘の姿を見つけました。長者は山の上に娘を葬り、石の供養塔を建てました。その墓は「稚児の墓」と呼ばれ、今も六国見山にあります。

由比の長者7

絵/渋谷雅子
お話/コソガイ

由比の長者_紙芝居
紙芝居にしました

子どもが鷲にさらわれる昔話は全国各地で見られます。このお話の別パターンとして、さらわれたのは男の子で、助けられて奈良東大寺の良弁僧正(669〜773)となり、数十年後に親子の対面を果たした、というものもあります。

染屋時忠は、藤原鎌足の玄孫(孫の孫)にあたり、由比の長者と呼ばれた豪族です。飛鳥〜奈良時代の伝説的な人物で、鎌倉の始祖として、関東八か国を取り締まって東夷(あずまえびす)を鎮めたとされています。鎌倉最古の神社・甘縄神明神社は時忠が建てたものです。

染屋太郎大夫時忠邸跡(そめやたろうだゆうときただていあと) 鎌倉市長谷

7ヶ所あった「塔ノ辻」のうち、由比ガ浜大通り(長谷小路)の笹目の十字路のみが、現在も地名として残っています。

岐れ道から鎌倉宮へ向かう参道付近にも、時忠の娘の血がしたたり落ちて、その辺り一帯には祟りがあり、大勢の人が川で亡くなり「魔の淵」と恐れられていました。杉本寺の住職が大正時代にお地蔵さまを祀って以来、悪いことは起きなくなったそうです。

この娘の墓と伝えられる石塔は、六国見山の山頂付近にあります。

稚児塚
六国見山(鎌倉市)稚児の墓

六国見山の北側、多聞院の辺りでも骨が見つかり、時忠は、骨を十一面観音像の胎内に納めて、その地に岡野観音堂を建立したと伝えられています。

また、鎌倉で最も美しい仏像と言われる、如意輪観音の胎内にも、供養のために娘の遺骨を納めたとされています。この仏像はいくつかの寺を経て、今は西御門の来迎寺にあります。

文/コソガイ

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