むかし、今泉の散在ヶ池には大うなぎの主が棲んでいると言われていました。
その今泉村になかなか子宝に恵まれない長者がおりました。長者夫婦は、「どうか子どもをお授けください」と、近くの白山神社の神様に、毎日熱心にお祈りしていました。
するとある晩、夢のなかに神様が現れて、「男の子を授けよう。だが決して、池の魚を取らせぬように」とお告げがありました。
それから間もなく元気な男の子が生まれました。この子は神次(しんじ)と名づけられ、すくすく育ちました。長者は神様のお告げを守って、神次を池に近づけないようにしていました。
ところが神次が十歳を過ぎる頃、村人達の間で、「長者の息子は、毎日池に出ては魚を殺している」と噂が広がったのです。
驚いた長者が、神次が外へ出る時にあとを付けてみると、確かに池の魚を捕っているではありませんか。
慌てて神様におわびをすると、「家に引きこもらせて、もう決して外に出してはならぬ」と、きついお告げがありました。
家に閉じ込められた神次は、急に元気がなくなり、みるみるうちにやせ衰えていきました。
とうとう命も危ういほどになると、涙ながらに神次は「この世の最後に池が見たい」と言うのです。
哀れに思った長者が許すと、神次はいきなり元気になって、家から飛び出して駆けていきました。そしてその勢いのまま、池に飛び込んだのです。
やがて池が真っ赤に染まり、大うなぎが浮かびました。
神次は池の主の大うなぎを殺してしまったのです。
水の中からは異様なうなり声が聞こえ、神次は二度と戻りませんでした。
絵/渋谷雅子
お話/コソガイ
散在ヶ池(鎌倉湖) 鎌倉市今泉台
灌漑用として造られた人造湖です。中心部が急に深くなり昔から水の事故が多かったため、子どもたちが池に近づかないようにと、近隣住民がこのお話を作ったのではないかと言われています。
一般的には「さんざがいけ」ですが、地元の人たちは「さんざいがいけ」と呼びます。資料によりまちまちで、昔からどちらの読み方も使われているようです。
江戸から明治の頃、この一帯には「大船千石」という大水田が広がっていました。水争いが絶えなかったことから、小菅谷(横浜市栄区)の代官、梅澤与次右衛門が中心となり、明治2年(1869)に堰を築いて共有の溜め池を造りました。
大船、岩瀬、今泉の3村の草刈場として、称名寺が土地を分散開放していた「散在の山」の中にあるということで「散在池」と名付けられました。
昔の様子を知る人に尋ねたところ、昭和の初め頃は小さな池がいくつもあり、今の池の辺りは鎌倉石の石切り場になっていたそうです。
池が小さくてまだ水争いが続いたため水利組合が池を造り直し、昭和34年(1959)に今の散在ヶ池が完成しました。物語ができたのもこの頃だと思われます。
昭和40年代に入り周囲が宅地化すると調整池としての役割に変わり、通称「鎌倉湖」と呼ばれることも。その後、周辺を整備して森林公園となっています。
ちなみに、鎌倉の地名で間に「が」が入る場合、「散在ガ池森林公園」「由比ガ浜海水浴場」のように役所が決めた公式名称や住所表記は「ガ」を使います。地域の人々が呼び習わすなど民間で使う名は「散在ヶ池」「由比ヶ浜駅」のように「ヶ」と書くことが多いようです。
文/コソガイ
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