建長寺では、供養されない死者に施しをする法要「施餓鬼会」を7月15日に行います。
むかし、開山の大覚禅師が施餓鬼会をしたところ、一人の武将が終わってからやって来て、大変残念そうでした。禅師は不憫に思って声をかけ、もう一度、供養を施しました。
武将は大変喜んで「自分は梶原景時である。」と名乗って姿を消しました。梶原景時はとうのむかしに亡くなった人でした。
以来、建長寺の施餓鬼会は毎回二度行われます。
絵/渋谷雅子
お話/コソガイ
梶原景時(?〜1200)は平安時代末期~鎌倉時代初期の武将。相模国鎌倉郡周辺を支配していた武士団・鎌倉党の一族で、鎌倉郡梶原郷(現在の鎌倉市梶原周辺)を本拠としていました。
石橋山の戦いで源頼朝が敗走すると、平家方でありながら見逃して命を救い、その後は頼朝に仕えて重用されました。坂東武者には珍しく教養があり、和歌に秀でて弁舌が巧みな文武両道の人物であったとされています。
景時は侍所所司(次官)、後に別当(長官)の職に就いて御家人たちを厳しく取り締まったため、御家人たちの反感を買っていました。正治元年(1199)頼朝の死後、御家人66名の連判状による弾劾で失脚し鎌倉を追放され、翌年一族もろとも戦死しました。
頼朝に従い幕府を支えてきて、この非業の死はさぞ無念だったことでしょう。それから50数年後、創建まもない建長寺に亡霊が現れたというのが、このお話です。現在も毎年7月15日に、通常の「三門施餓鬼会」と景時を弔う「梶原施餓鬼会」が行われています。
建長寺(けんちょうじ) 鎌倉市山ノ内8
建長5年(1253)、5代執権 北条時頼が宋の高僧・蘭渓道隆(大覚禅師)を迎えて創建した、日本最初の禅宗専門道場です。北条得宗家が世襲していた荘園・山内荘(やまのうちのしょう)に建立されました。
鎌倉の代表的な寺であり、数多くの伝説が残されています。
文/コソガイ
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